2009年06月30日

コミックスって…

カフェミグノンで、ポメラニアン4コママンガ
ポメポメな日々」を展示させていただいてますが…

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コミックスも置かせていただきました(*^_^*)
「あしたはハッピードッグ」@Aと「いぬの先生」です。

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とってもありがたいことです。
なぜなら、コミックスが出てもなかなか本屋に置いてもらえないからです。

漫画家なのにどうして?と思う方もいると思いますが、本屋には「棚」というのがあって、雑誌社によって棚が決まっているのです。さらにその雑誌社で出版している雑誌の棚に分けられます。

私は、小学館のJudyという雑誌に連載をしていましたが、コミックスが出るとそのJudyの棚に置いてもらうわけです。でも新しいコミックスは毎月どんどん何冊も出るわけですから、古いものははずされるわけです。なのでほとんどの場合は一か月しか本屋に置いてもらえないし、最悪、棚がない場合もあります。

漫画家志望のお若い方は、デビューさえできれば仕事がもらえて、コミックスが出て、収入がバンバン…なあんて思っているかもしれませんが、大きな間違いですよ。
まず、デビューしても仕事がコンスタントに来るかどうかは、努力しだい、読者の反応しだいです。で、コミックスが出ても何十万部とか売れなければすぐに本屋から消えます。

そういえば、数日前、原稿を描いている夢を見ました。
アシスタントの二人が来ているのですが、なかなかはかどらず…帰った後に残された原稿は、半分以上がまだ下絵の段階…\(◎o◎)/!
「スクリーントーンを一人で貼るのか?!」と気が遠くなる私。
しかも締切まであと1日しかありません〜〜(T0T)

今は商業誌の連載はやっていないので、そんな苦しみはないのですが…
うなされながら目が覚めました。。。

こちらは、カフェミグノンの「ジンジャーレモン」
はちみつをたっぷり添えてくれるので、悪夢も吹っ飛びます♪

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posted by なずな・まま at 16:45| Comment(8) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年02月11日

マンガ家裏話7 [転機]

少女マンガの明るく元気なキャラクター作りが苦手だった私は、大人のマンガを描きたいとずっと思っていました。

そんな時、マンガ界に新たなジャンルが登場しました。

レディースコミックですかわいい

今はあって当たり前の雑誌ですが、昔は存在しなかったのです。

そして私は、新たに「Be Love」に投稿。
再デビューをしました。

このとき、ペンネームを「麻乃真純」にしたのです。

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実は、このとき、庄司陽子先生が交通事故に会い、原稿が間に合わなく、ちょうど編集部にあった私の持ち込み原稿が、代わりに載ったといういきさつがあります。
当時、庄司先生に申し訳ないと思っていたのですが、考えてみれば、庄司先生は一時的に仕事をお休みなさっても、あの人気に陰りがでることは全くないのです。
当然その後も、ヒット作を次々出してらっしゃいました。

私は、少女マンガよりもレディースコミックの方がずっと描きやすかったですし、楽しく仕事ができました。

そのかわり、仕事の本数も増えた分、親指が腱鞘炎になったりもしました。とほほ。
昭和59年の頃のことです。



posted by なずな・まま at 13:31| Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月27日

マンガ家裏話6 [スランプ]

デビュー後、2年ほどたつと、コンスタントに仕事が入るようになりました。
カラーページや巻頭の仕事もたまに入り、忙しくなってきました。
昭和52〜53年頃です。

当時はアシスタントを使っていなかったので、プロットとネームのやり直しが続くと、しめ切りまでの時間がなくなり、睡眠時間2時間の日もありました。

コタツで原稿を描き、そのままコタツで横になり、起きあがってまた描く…といった不健康な日々を送っていました。

毎日マンガを描いて生活するのが夢だったのに、ちっとも幸福感がないのです。とほほ。。。

しかも自分の作品にも満足できずにいました。

この頃はシリアスが描きたかったのですが、編集担当者は「シリアスはダメ」と拒否。
人気が出るのは、主人公が明るく元気で前向きで、ハンサムな男の子が登場するラブコメだったのです。
私もそういう作品を描くことを求められました。

でも、当時は「明るく元気で前向き」なキャラクターを作るのはとってもしんどかったのです。

もうちょっと大人向けのマンガを描きたいとも思いましたが、昭和53年頃なので、今のようなレディースコミックは創刊されてなかったのです。

私はどんどん憂鬱になり、スランプになってしまいました。

初めてのスランプ突入〜〜あせあせ(飛び散る汗)

ウツ状態のようになり、なんにもやる気がしないし、もちろんマンガを描く気も起きません。

思い余って、担当者に「もう、マンガ家をやめたい…」と話しました。
すると、担当者は特にあわてて止めるわけでもなく「ん〜、もったいない気もするけどねぇ。。。」などと言っただけで、編集長は私の顔も見ずに「やる気のないヤツはほっとけ」と一言。

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まだ20歳そこそこの女の子が、仕事で悩んでいるんだから、もうちょっとフォローをしてくれてもよさそうなものです。ぐすん。

その後、何がどうなったのか、まったく記憶から飛んでしまっているのですが、結局その後もその雑誌にマンガを描いているのです。



posted by なずな・まま at 09:14| Comment(4) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月14日

マンガ家裏話6 [アシスタント]

二足わらじだった私ですが、デビューして2年後にOLを辞めマンガ一筋となりました。
その頃、編集者に「アシスタントをやってみる?」と誘っていただき、H先生のところにアシスタントに行くようになりました。

アシスタントは経験するとかなり自分の力になると思います。

先生によっていろいろですが、H先生の場合は、月に3〜4日くらい泊まりでアシスタントが3人くらい来ていました。
で、仕事は夜型でした。

昭和52年頃から二年くらいアシに通いました。

アシスタントでも上手なベテランと私のような新米がいるのですが、ベテランアシは背景を下絵からペン入れまで描きます。新米はベタぬりと消しゴムかけです。少し上達すると、カケアミや点描、集中線を描かせてもらえます。

当時はスクリーントーンの種類が少なかったので、点描やカケアミは全部手描きでした。

posted by なずな・まま at 09:16| Comment(5) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月12日

マンガ家裏話5 [プロットとネーム]

マンガはいきなり原稿に描くものではありません。

最初に「プロット」といって、物語のあらすじを書く作業があります。

その段階で編集者に見せ、打ち合わせをします。

私の場合、一度でOKになることはほどんどありませんでした。編集者にたくさんアドバイスをもらい、なんどもなんども直します。
直しているうちに、何を描きたいのかわからなくなり、全く違う話を持っていったりすることもあります。
最初から「こういう話はちょっとね」とバッサリとボツにされることもあります。

プロットはたいてい一度に3本くらい持っていって、その中でよさそうなものを選んでもらい、あとはボツにされることが多かったです。

そんな努力を重ね、やっとプロットのOKが出たら、次はネームという作業に入ります。

これは、コマ割りとセリフを決め、依頼をもらったページ数に物語を収める作業です。
ここでも何度も編集者と打ち合わせをします。で、アドバイスをもらい、直していきます。
私はいつも、少なくても3回、多い時は5回以上やり直しをしました。

精神的にかなりキツイ作業で、日常の何をやる時にもプロットやネームのことで頭がいっぱいになります。

なので、ネームができた時の喜びはひとしおです。

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左がプロット、右がネーム(「5+わん=ロク」より)
posted by なずな・まま at 09:28| Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月11日

マンガ家裏話4[デビューその後]

マンガ家はOLとは違って、デビューできたからといってすぐに仕事があるわけではありません。なので収入もありません。

すぐに次々仕事が入るマンガ家さんもいます。
私はそうではありませんでした。

どこが違うか。

読者のアンケート結果です。
もちろんそれだけではないのですが、かなり大きな影響があります。

アンケートというのは、よくマンガ雑誌を開くとすぐに「なんとかプレゼント」というのがあって、後ろの方に応募はがきがついているのですが、そこに「一番おもしろかった作品は?」「一番つまらないと思ったものは?」などと書いてありますが、ソレです。

デビュー作が読者にウケて人気が出れば、仕事もすぐに入ります。
そのうち、カラーページがついたり、シリーズの仕事がきたり、巻頭カラーで登場したりします。

私のアンケート結果はあまり良くなかったみたいです。とほほ。

私の場合、デビュー後、次の作品が掲載されたのは半年後でした。

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昭和50年6月号「別冊少女フレンド」。
表紙は水森亜土さんです。里中満智子先生の連載が載っています。

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posted by なずな・まま at 10:33| Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月10日

マンガ家裏話3[デビュー]

昭和49年の年末。
講談社の別冊少女フレンドの「BFマンガセミナー」に応募すること7回目で、新人賞をとることができ、デビューできた私です。

作品名は「すみれの指輪(リング)」。

その時のペンネームは「十和田純子」でした。

今のペンネーム「麻乃真純」に改名したのは、その後講談社の「Be-love」に作品を掲載するようになってからです。

デビュー作が載った雑誌は、昭和49年12月発売の「ラブリーフレンド」早春号。

デビューが決まった時、うれしくてうれしくて、マン研の友達に電話して、一緒にうれし泣きした記憶があります。

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表紙のイラストは大和和紀先生です。真ん中のモコモコした、「ケムケム」というキャラクターがラブリーフレンドのシンボルでした。

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庄司陽子先生、前原滋子先生、神奈幸子先生のお名前が見えます。


講談社の担当のTさんが言いました。
「これからが大変よ」。

私は、たぶん大変なんだろうなとは思っていましたが、なにがどう大変なのかは想像もつきませんでした。

あと3か月で高校生活が終わろうとしている時でした。
日本橋の商事会社に就職が決まっていた私は、マンガだけでたくさんの収入が得られる自信がなかったので、OLとマンガ家の二足ワラジで生きていこうと決心していました。

収入だけの問題でなく、マンガ家は家にこもってやる仕事。それより社会に出ていろいろと体験したかったのです。なので、昭和50年の4月から、私は、商事会社のOLとマンガ家と、二つの職業を持つことにしました。

デビューしてすぐに、マンガだけで食べていける人はごくわずかの人です。

今、思うと、二足ワラジの生活は正解だったと思います。

収入の面でもそうですが、人間的にも、家に一人で閉じこもってマンガばかりを描いている生活を続けるよりも、社会に出て友達を作って一緒に旅行したりランチしたり、恋をしたり失恋して泣いたり…そんな経験の方がよっぽど宝物だからです。

そして、これからマンガを描き続けていくためにも、社会勉強は必要だと思ったのです。
マンガのストーリーは自分の中から生み出さなくてはなりません。経験が貧困だとそれなりのアイデアしか出てこないだろうと考えたのです。

posted by なずな・まま at 20:40| Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月04日

マンガ家裏話2 [高校時代]

高校のマン研に入った私は、先輩(現在は、漫画家ますむらひろしさんの奥様)に、マンガの描き方を教えていただき、初めて30ページほどの作品を仕上げることができました。
高校一年生の時だったと思います。

せっかく描けたのだからと、当時の「別冊少女フレンド」(講談社)のマンガ家デビューのための「BFマンガセミナー」に応募しました。

すると努力賞でした。

その上に佳作2席、佳作1席、そして新人賞があります。
新人賞をとるとデビューできます。

単純に意欲が湧いた私はすぐに次の作品を描きました。
すると佳作2席になりました。

「よし!次は佳作1席、その次は新人賞だ!」と思ったのですが…。

そう人生甘くなく、努力賞にまた落ちたり佳作1席に上がったり、また落ちたり上がったりしながら、新人賞を受賞するまで、高校3年間で7回応募を繰り返しました。
はたして、学校の勉強はやっていたのでしょうか?たらーっ(汗)

初めての応募は郵便で送ったのですが、「近いのだから来なさい」と編集部の担当者に言われ、東京まで行きました。
学校の帰り、制服のままです。

家は千葉県にあり、東京まで一人で行ったことがなかった私は、初めて編集部を訪れる時、怖くて怖くて、マン研の友人二人についてきてもらいました。
すると担当者に「次は一人で来なさい」と叱られ…あせあせ(飛び散る汗)次回からは一人で行きました。

担当者はいかにもキャリアガールといったカンジの女性で、当時の私にとっては威圧感たっぷりでした。
言われることはなんでも「はい」「はい」といって聞いていたような気がします。

注意を受けることばかりで、褒められた記憶はあまりありません。とほほ。

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posted by なずな・まま at 14:25| Comment(4) | TrackBack(0) | マンガ家裏話

2009年01月02日

マンガ家裏話1 [少女時代]

今年は、少しは誰かのお役に立つようなブログを書きたいと考え…。

どういう内容がいいかと考えてみたのですが。

私が知ってることで、「知りたい」と思っている方がいる…ということで、マンガ家の裏話を書いてみようかと思います。

これからマンガ家になりたいと思っている方、デビューしたばかりの方が、たまたまこのブログをご覧になって、少しでも「へ〜」と思っていただけると幸いです。

ちなみに私がデビューしたのは1975年です。すでに34年の月日が流れているので、今の時代には合わないこともあるかもしれませんがご了承ください。

ところで、「マンガ家」だと言うと、よく質問されるのが
「子供の頃から絵を描くのが好きだったの?」
「どうやってデビューしたの?」
その二つです。

今日は、子供の頃の事を書いてみます。

はい、はい。
子供の頃からお絵かき大好き少女でした。

小学生の時、他の生徒たちがグラウンドで遊んでいても、私は一人で教室でお絵かきしていました。
元祖「オタク」です。

物語を考えるのも好きで、授業を聞かずにボーーッと空想の世界にひたっていました。

母が先生に注意を受けました。
「お宅のお子さんは、お絵かきばっかりやっていて、お友達と遊ばない困ったお子さんです。しかも授業中はいつもボーーッとしています。」

3年生くらいからは友達もできてグラウンドで遊ぶようになりましたが相変わらずお絵かき大好きのボーーッとした子供でした。

相変わらず先生に注意を受けたりしていましたが、そんな子供時代があったからこそマンガ家になれたと思うので、欠点だって長所に変えられるexclamationってことだと思います。

ストーリーマンガを描くようになったのは4年生の頃からです。
今のように「マンガの描き方」とかいう本はなかったので、どんな道具を使うのか全く知らずにひたすら自己流で鉛筆で描いていました。

マンガの描き方や道具を知ったのは高校の「マンガ研究会」に入ってからです。
先輩にペンと墨汁(あるいは黒インク)を使うのだと教えてもらい、スクリーントーンの存在も知りました。

その時の先輩は後にマンガ家デビューし、現在は「銀河鉄道の夜」のキャラクターデザインなどで有名な、マンガ家のますむらひろしさんの奥様になってらっしゃいます。

posted by なずな・まま at 15:12| Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ家裏話